藤沢周平さんの作品に、「冬の窓から」という詩があります。
「灰色の雲の下。顫える磁針がNにかさなる方角に、小さくぶらさがっている、あれが故郷である。私の悔恨をつめこんで、凍てた腸詰のように光る故郷。(中略)明りをつけると、故郷はすぐにみえなくなるのに、悔恨はしぶとく部屋の中まで入りこんで来るのだ。」
言葉をていねいに紡いで織りなしていく散文とちがって、詩は、言葉を削り、磨いて、結晶化させたものです。そのために、難解になることもありますが、その一方で、書き手の魂の核心を、直接的に伝えます。
望郷と悔恨、これが作家・藤沢周平の原点でした。
昭和二年、現在の鶴岡市郊外の農村地帯に生まれた藤沢さんは、苦学して山形師範に学び、郷里の中学校に赴任しました。しかし、青雲の志を抱いた教師生活は、わずか二年で、結核の発病によって断たれました。
上京して手術を受け、かろうじて社会復帰するも、郷里での復職は叶いませんでした。鬱屈する思いを胸に、業界紙の記者として生活を立て直し、郷里の女性と結婚、一女に恵まれます。しかし、それもつかのま、生後八か月のみどり子を遺して、妻に先立たれます。
夫人を亡くして半年後に、藤沢さんが親しい人に宛てた手紙には、「これまでの人生経験、現在の智力、体力、経済力、そういうもののすべて、僕の頭の先から足の爪先まで、すべてを投げ込んで、結局負けてしまいました」とあり、その後の手紙には、「新人賞だの、直木賞候補だのと言っても、それが格別うれしいわけでもありません。むしろ悔恨は深まるばかりです」と記しています。
初期の藤沢さんの作品は、暗い色合いのものでした。昭和四十六年にオール讀物新人賞を受賞した「溟い海」、その二年後の直木賞受賞作「暗殺の年輪」、どちらも暗い情念に貫かれています。ほかにも、「割れた月」「闇の梯子」など、タイトルからして、明るさとは無縁でした。
藤沢さんは言います。「物語という革ぶくろの中に、私は鬱屈した気分をせっせと流しこんだ。そうすることで少しずつ救済されて行った」。そして、昭和五十一年に連載を始めた「用心棒日月抄」を「転機の作物」と言い、この頃から、職業作家として「大衆小説のおもしろさの中の大切な要件である明るさと救い」を意識するようになった、と。
「山桜」は、昭和五十五年二月号に発表されています。冬の厳しい寒さの中で執筆されたものです。東京の冬の空っ風は、雪国である郷里の冬よりこたえると言っておられたので、その厳寒のなか、花曇りの春を待望して書かれたのでしょう。
舞台は、北国の小藩、海坂藩。藩名は明記されていませんが、小説の中に五間川が流れていることで、それと知れます。
郷里の鶴岡をモデルにした海坂を舞台に、藤沢さんは多くの武家ものを執筆しました。現実の故郷は時代とともに大きく変貌しても、心の中の故郷の山河や人情は、藤沢さんを励まし続けたのだと思います。そういう庄内の四季を映画も鮮やかに写し取っています。
病気で前途を閉ざされ、突然の病魔に愛妻を奪われた体験からくるのでしょうか、藤沢さんには、あり得たかもしれないもう一つの人生を思う、という作品の系列があります。「山桜」では、「もっとべつの道があったのに、こうして戻ることの出来ない道を歩いている」という野江の感懐に表れています。
しかし、野江は、世間の規矩を超えた決断で、人生をリセットします。つつましい女性の秘めた情熱も、藤沢作品の魅力の一つです。
藤沢文学のエッセンスが凝縮しているともいえる短編小説を、ていねいに映像化したこの映画は、藤沢さんにもきっと喜んでもらえると思いました。